教えのやさしい解説

大白法 563号
 
罪障消滅(ざいしょうしょうめつ)
  罪障とは罪業(ざいごう)による成仏の障(さわ)り、または成仏を妨(さまた)げる悪い行為のことで、衆生が過去遠々劫(おんのんごう)以来積(つ)み重(かさ)ねてきた様々な悪業・罪業が仏道修行を妨げ、成仏の障害(しょうがい)となっていることをいいます。

 謗法こそ最も重い罪業
 種々の罪業の中でも、正法(しょうぼう)を信受せず、かえって誹謗(ひぼう)する「誹謗正法」、すなわち「謗法」が最も重罪であり、これがすべての罪業の根本原因となっています。
 『小乗大乗分別抄(ふんべつしょう)』に、
「今は又(また)末法に入(い)って二百余歳、過去現在に法華経の種(たね)を殖(う)えたりし人々もやうやくつ(尽)きは(果)てぬ、又種をうへたる人々は少々あるらめども、世間の大悪人、出世の謗法の者数をしらず国に充満(じゅうまん)せり。譬(たと)へば大火(たいか)の中の小水(しょうすい)、大水の中の小火、大海の中の水、大地の中の金(こがね)なんどの如く、悪業とのみなりぬ。又過去の善業(ぜんごう)もなきが如く、現在の善業もしるしなし」(御書 七〇九n)
また『兄弟抄』に、
 「我が身は過去に謗法の者なりける事疑ひ給ふことなかれ」(同 九八一n)
等とあるように、末法の衆生は過去遠々劫以来、重い謗法の罪業を積んだ衆生ばかりであり、その罪業は生命に深く刻(きざ)み込(こ)まれているのです。

 仏道修行を妨げる罪障とは
 天台大師は『摩訶止観(まかしかん)』の中で、衆生の罪業が仏道修行を妨げ、成仏の障(さわ)りとなることを、煩悩障(ぼんのうしょう)・業障(ごうしょう)・報障(ほうしょう)の三障を説いて明らかにしています。
 煩悩障とは、衆生が本来具(そな)えている貪(むさぼ)り・瞋(いか)り・癡(おろ)かなどが仏道修行を妨げることをいい、業障とは、倶舎論(くしゃろん)、涅槃経(ねはんぎょう)によれば五逆罪(殺父(しふ)・殺母(しも)・殺阿羅漢(しあらかん)・出仏身血(すいふつしんけつ)・破和合僧(はわごうそう)を犯(おか)した悪業が仏道修行を妨げることをいいます。そして報障とは、過去の悪業の報(むく)いによって修行が妨げられることをいいます。
 この三障を大聖人は『兄弟抄』に、
 「煩悩障と申すは貪(とん)・瞋(じん)・癡(ち)等によりて障碍(しょうげ)出来(しゅったい)すべし。業障と申すは妻子(さいし)等によりて障碍出来すべし。報障と申すは国主・父母等によりて障碍出来すべし」(同 九八六n)
と、重い罪業を持(も)つ私たち末法の衆生は、せっかく正法に巡(めぐ)り合っても、貪(むさぼ)り・瞋(いか)り・癡(おろ)かといった煩悩の「三毒」が障(さわ)りとなったり、あるいは妻子眷属(けんぞく)の反対や国主・父母等の迫害(はくがい)に遭(あ)うなどの障害、すなわち罪障が現れてくると、具体的に判(わか)りやすく御教示されています。

 妙法信受こそ罪障消滅の方途(ほうと)
 では、この謗法の罪業を消滅し、罪障に打ち勝って、成仏の境界(きょうがい)に至るためにはどのようにすればよいのでしょうか。
 これについて『佐渡(さど)御書』に、
「日蓮も又かくせ(責)めらるゝも先業(せんごう)なきにあらず(中略)我今度(このたび)の御勘気(ごかんき)は世間の失(とが)一分(いちぶん)もなし。偏(ひとえ)に先業の重罪を今生(こんじょう)に消して、後生(ごしょう)の三悪を脱(のが)れんずるなるべし」(同 五八〇n)
と、大聖人は示(じ)同凡夫(どうぼんぷ)のお立場から、御自身は妙法弘通(ぐずう)を機縁(きえん)として佐渡配流(はいる)の大難を受けられたことによって、重罪の悪業を消滅したと御教示(ごきょうじ)されています。
 この御金言(ごきんげん)は、一切衆生は種々の罪業の故(ゆえ)に心身(しんしん)に大苦悩を受け続け、死しては無間(むけん)地獄に堕(お)ちるのであるが、正法を信受し、様々な迫害(はくがい)・中傷(ちゅうしょう)を受けながらも折伏(しゃくぶく)を行じ続けていくならば、その功徳によって、重い罪業を一時に顕(あらわ)し、浄化(じょうか)して消滅することができるのである、と仰せられているのです。
 つまり、過去遠々劫(おんのんごう)以来、謗法を積み重ねてきた私たちが正法を持(たも)ち、折伏を行ずるとき、重い罪業によって様々な障害、すなわち罪障が起こってきますが、これは本来ならば地獄に堕(お)ちて受けなければならない大苦(だいく)を、正法を信受する大功徳によって現世(げんせ)において軽く受けている姿に他(ほか)ならないのです。
 『御義口伝(おんぎくでん)』に、
「衆罪(しゅざい)とは六根に於(おい)て業障降(お)り下(くだ)る事は霜露(そうろ)の如し。然(しか)りと雖(いえど)も慧日(えにち)を以(もっ)て能(よ)く消除(しょうじょ)すと云(い)へり。慧日とは末法当今(とうこん)日蓮所弘(しょぐ)の南無妙法蓮華経なり」(同 一七九九n)
と、また『聖愚(しょうぐ)問答抄』に、
「只(ただ)南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば滅(めっ)せぬ罪や有るべき、来(き)たらぬ福(さいわい)や有るべき。真実なり甚深(じんじん)なり、是(これ)を信受すべし」(同 四〇六n)
と仰せのように、大聖人の仏法を固(かた)く信受し、南無妙法蓮華経の御題目を自行(じぎょう)化他(けた)にわたって唱えていくならば、消滅しない罪業など絶対にありません。いかなる重罪も、あたかも陽光(ようこう)に照(て)らされた朝露(あさつゆ)のように消(け)し果(は)てることができるのです。

 強盛な信力で障魔を打ち破ろう
 『兄弟抄】には、
「此(こ)の法門を申すには必ず魔(ま)出来(しゅったい)すべし。魔競(きそ)はずば正法と知るべからず。第五の巻(まき)に云はく『行解(ぎょうげ)(すで)に勤(つと)めぬれば三障四魔(しま)紛然(ふんぜん)としで競ひ起こる、乃至随(したご)ふべからず畏(おそ)るべからず。之(これ)に随(したが)へば将(まさ)に人をして悪道に向(む)かはしむ、之を畏れば正法を修することを妨(さまた)ぐ』等云々」(同 九八六n)
と御教示されています。
 様々な罪障が現れ、魔が競い起こるのは、大聖人の仏法が唯一(ゆいいつ)の正法であるからこそであり、また当人(とうにん)の信心修行が進んでいる証左(しょうさ)でもあるのです。そのときこそ、いよいよ強盛な信心を奮(ふる)い起こして障魔に立ち向かっていくことが大切です。恐れて負(ま)けてしまったならば、必ず仏道修行から退転(たいてん)することになり、謗法の重罪業(じゅうざいごう)のため、現世(げんせ)で様々な苦悩を受け、来世(らいせ)には三悪道(さんなくどう)に堕(お)ちることになってしまいます。私たちは、大聖人の仏法がいかなる罪業も消滅する唯一の正法たることを確信し、どのような障魔が競い起ころうとも、折伏弘教(ぐきょう)に勇猛(ゆうみょう)精進(しょうじん)していくことが肝要(かんよう)であり、そのような信心に住(じゅう)することによってこそ成仏の境界を得(え)ることができるのです。